BLACK DODO DOWN

HN:影月。「怪」のつくものを好み、特撮・ゲームを中心に、よしなしごとをそこはかとなく書き付くる。

自分を殺してはならない理由、人を殺してはならない理由

 ネットを巡回中、こんな記事を見つけました。

自殺を巡る力学
http://ch.nicovideo.jp/kawango/blomaga/ar30957

 この記事を見て真っ先に思い出したのは、京極夏彦氏の小説「ルー=ガルー 忌避すべき狼」の中の会話文でした。

「もう一度尋きますけど−−−人を殺すのは悪いことですよね」
「そう。悪いこと。絶対してはいけないこと。法律で決まっているから」

主人公の一人である少女と、そのカウンセラーの女性の会話。これを横で聞いていた刑事が、俺の時代は道徳とか倫理とか、正義とか人情とか、もっとべたべた説明されたと言うと、カウンセラーはさらに続けます。

「そうした感情や理屈は、人を殺してはいけない理由じゃないんです。人を殺してはいけないという法律ができた理由なんです」
「家族や知人が殺されれば悲しい。悔しい。苦しい。それは当然のことです。だからこそ人が健やかに暮らす権利を暴力的に剥奪することは、やはり悪いことと判じられる。だから人を殺すのはやめよう−−−という法律ができたのでしょう」

 それはそうだが、同じじゃないのかと刑事が言うと、カウンセラーは同じじゃないと断言します。

「それじゃあ尋きますが−−−その人が死んでも悲しくもなくって、悔しがる人も怒る人もいなくって、寧ろその人が生きていると多くの人が苦しむような人物がいたとして、そういう人は、殺してもいいんですか?」
「そ−−−」
そんなことはないだろうと、橡は呆れたように言った。
「どんな人間だって殺しちゃ駄目だよ」
「そうならば−−−そうした様々な感情や理論や教訓は、人を殺してはいけない理由そのものにはなりません。悲しくなくたって辛くなくたって、寧ろ嬉しくたって、殺しちゃいけない。法の前では万人は平等なのでしょう」
「人を殺してはいけないのは−−−やっぱり法律でそう決まったから、というしかないんです。正義や道徳それ自体は、それを説明する理由にならないんです」

 上の記事の筆者が掲げた、死ぬことがいけない理由について別れた意見の中に「社会的なルールでそう決まっているだけ派」というのがありましたが、まさにこの会話はそれを理論的に補完してくれていると思います。理屈的にはここに落ち着かざるを得ないのに、大人たちが自殺してはいけない、命を粗末にしてはいけないというのはなぜだろうとも書かれていますが、それはきっとこのカウンセラーの言うように、道徳や正義を人を殺してはいけないという法律ができた理由ではなく、人を殺してはいけないという理由とはき違えているからではないでしょうか。あるいは、頭ではそれをわかっていても、人が自分を含む人を殺していけない理由が「法律で決まっているから」という、ある意味無味乾燥な帰結にたどり着いてしまうのが怖かったり受け入れたくなかったりするから、道徳や正義といったもっと人間らしい理由をでっちあげて取り繕おうとしているのか。

 この記事を読んで思い出した小説が、もう一つあります。題名を忘れてしまいましたが、星新一ショートショートの一編で、あの世にいる人たちとの会話ができる機械が開発される話。発表された当初人々はそれを半信半疑の様子で迎えますが、やがて機械の向こうにいるのが、本当にあの世にいる人たちだと確信する。しかも、あの世の人々は口々にあちら側は素晴らしいところだと賛美し、この世の人たちにもあの世へ来ることを勧める。こうして人々は我先に、喜びながら自ら命を絶っていく・・・。

 「死後の世界というのはよほどいいところなのだろう。戻ってくる人が誰もいないのだから」というジョークを聞いたことがありますが、「死ぬのが怖いから」というのは紛れもなく人が死なない理由の最たるものでしょう。人は死んだらどこへ行くのか。天国か地獄か、それともただの何もない虚無か。「ちょっと死んで確かめてくる」というわけにもいかず、それはだれにもわかりません。わからないからこそ恐ろしい。その恐ろしさが人を生へと踏みとどまらせているのだとすれば、一つの疑問が湧いて出ます。

 我々は生きているのでしょうか。それとも、ただ死んでいないだけなのでしょうか。

ルー=ガルー 忌避すべき狼 (講談社ノベルス)

ルー=ガルー 忌避すべき狼 (講談社ノベルス)