BLACK DODO DOWN

HN:影月。「怪」のつくものを好み、特撮・ゲームを中心に、よしなしごとをそこはかとなく書き付くる。

ウルトラマンが泣いている

 「特撮の神様」円谷英二によって創業され、不滅のヒーロー「ウルトラマン」をこの世に送り出してきた円谷プロ。「光の巨人」とも呼ばれるその輝かしきヒーロー像とはかけ離れた、多くの闇を抱え続けてきた経営の内幕を物語る暴露本。ずっと気になっていましたが、今回ようやく読むことができました。

 著者は円谷英二の孫にして、自らも円谷プロの6代目の社長を務めた円谷英明氏(「宇宙刑事シャイダー」で主役のシャイダー/沢村大を演じた円谷浩氏のお兄さんでもあります)。日頃の私は企業の経営などというものにはほとんど関心がないのですが、それでも円谷一族の一員により語られる円谷プロの経営の内幕は、あまりにも衝撃的でした。高コスト体質から抜け出せない番組制作、いい加減な経理、キャラクタービジネスへの依存、放送局との不和、サイドビジネスの失敗、経営者とその取り巻きによる会社の金の使い込み、海外の企業との泥沼化した裁判・・・次々と明らかにされる問題の数々に、こんな全身にガンが転移したような問題だらけの会社が、よく潰れもせずに断続的にとはいえ今日までウルトラマンを作り続けることができたなと、驚きを通り越して呆れてしまいました。特に円谷プロの放漫経営のいわば「主犯」としてやり玉に挙げられているのが、著者にとっては叔父にあたる3代目社長の皐氏。既に鬼籍に入っているため著者の言い分だけを真実とするのはフェアではありませんが、それでもここまで書かれるからには相応のことをしたことは明白。まるで文章から怨嗟の呻きが聞こえてくるかのようです。

 全体的には同情の意を寄せるほかはありません。ただ、「それはどうだろう?」と思うところもちらほら。

 スポンサーとテレビ局という両者の圧力にさらされた円谷プロは、どうしたら視聴率を上げられるか、どうしたら今の子供の好みに合わせられるかと右往左往し、ついには、玩具として発売予定のメカの登場に合わせて、脚本を変えることにまで踏み込んでいました。なりふりかまわずという雰囲気で、番組本来のアイデンティティが、円谷プロにもバンダイにもテレビ局にも、誰にもわからなくなっていきました。

 このように玩具の商品展開を優先せざるを得なかったために番組の方向性が迷走した、というような書かれ方がされていますが、東映では毎年「今年はこんなベルトでいきましょう」という提案をバンダイから受けてから新しいライダーを作り始めるわけで、「今年はライダーを電車に乗せましょう」という我々から見れば無茶ぶりでしかない提案から、東映はあの電王を作り上げたのですから、東映にできて円谷にできなかったというのはやはり、商品展開をうまく番組作りとつなげる能力の問題だったのではないかと思えます。(まぁ、東映も成功ばかりではありませんが。キバには一回しか登場しなかったメカやガジェットがいくつもありましたし)

 また、平成三部作以降のウルトラマンのように時代の変化に合わせてウルトラマンのコンセプトを変えなければならなかったことについて、「男はつらいよ」や「水戸黄門」を引き合いに出して「なぜ、ウルトラマンも、偉大なるマンネリではいけなかったのでしょうか」と書いていますが、変わらなかったらそれこそ、ウルトラシリーズは80あたりで終わっていたと思います。毎年毎年、それこそ「変身」を繰り返してきた仮面ライダーとは、ここでも大きな差があります。ただ、「語ろう クウガ・アギト・龍騎」の感想でも述べましたが、ウルトラマンは本質的には善を体現する「神様」のような存在であり、善も悪も抱える「人間」である仮面ライダーほど大胆にそのあり方を変えることができない、というキャラクターの本質そのものが抱えるカラータイマーより大きな弱点があるのですが。

 ウルトラシリーズには、ウルトラマンに変身できる主人公が、「ウルトラマンになれる」という慢心からピンチを招いたり、無鉄砲な行動をとって仲間の信頼を失ってしまう、というエピソードが定番のようにあります。それはまさに、円谷プロの姿そのものではなかったのでしょうか。ウルトラマンに頼るばかりでは、自らに危機を招き、大事なものを失うことになる。そんな作品を作りながら、なぜ彼らはそれを我が身に重ねることができなかったのでしょうか。