BLACK DODO DOWN

HN:影月。「怪」のつくものを好み、特撮・ゲームを中心に、よしなしごとをそこはかとなく書き付くる。

書楼弔堂 破暁 補足感想

 先日書いた通り「書楼弔堂 破暁」についてはもっと書きたいところがありますので、作中の言葉とともにここに記させていただきます。

「本は、幾らあっても良いもの。読んだ分だけ世間は広くなる。読んだ数だけ世間が生まれましょう。でも、実のところはたった一冊でも良いのでございますよ。ただ一冊、大切な大切な本を見付けられれば、その方は仕合わせでございます」
だから人は本を探すのですと亭主は云った。
「本当に大切な本は、現世の一生を生きるのと同じ程の別の生を与えてくれるのでございますよ。ですから、その大切な本に巡り合うまで、人は探し続けるのです」
(p.42)

 「自分にとっての一冊」を手に入れるために人は本を読むのだという弔堂の主人の言葉に、大いにうなずいてしまいました。何か面白そうな本を手に取るときは、その本が自分を変えてくれるのではないかと、そんな期待をしてしまいます。もっとも、弔堂の語る「その本」とはむしろその逆、人を変えるのではなくその人が今歩いている道を肯定してくれる本、というのが正しいようですが。浜の真砂の中の一粒のような「その一冊」を、生きている間に見つけられればよいのですが・・・。

考えることが多すぎる。信じるものが見え難い。列強に伍すと張り切ったところで目の前の生活は変わらない。自由だ民権だと檄を飛ばされても、何をすべきか判らない。それなのに、景色ばかりが変わってしまう。走れ走れと尻を叩かれ、やれ遅れまじと走ってはみるものの、何処に向かって走っているのか、良く判らぬ。
(p.81)

 この小説の狂言回しとして、弔堂の主人と客とのやりとりをその傍らで見守ることになる男・高遠。旗本であった父の遺産があるので事実上失業状態であっても暮しには困らず、妻子を実家に残してぶらぶらと毎日を無為に過ごしている男ではありますが、根っからの放蕩者というわけではなく、世間に対する後ろめたさや家族に対する申し訳なさを感じてはいるものの、今の暮らしを変えることにはなんとなく二の足を踏んでいる。本を読んだり弔堂と客とのやりとりを見たりすることでなんとなく賢くなったりなにかを悟ったような気にはなるけれど、結局は何も変わらない。極論してしまえば彼がいなくても物語はなんら支障なく進むのですが、なんだか彼には親近感を抱いてしまいます。幕末、明治と言えば、ともすれば誰もが国を変えることに邁進していたようなイメージを抱いてしまいがちですが、みんなが坂本龍馬みたいだったかといえば当然そんなわけがないのです。江戸から明治へと変わったとはいってもそれだけで個々人がそれまでの自分とは違う自分に生まれ変わったわけではなく、大多数の人は彼のように個人の思惑とはお構いなしにどんどん変化していく世の中に翻弄され、自分なりに流れに乗ろうとはしてみるけれど思うようにうまくはいかなかったのではないか。私たちが生きているこの2014年も、産業革命以来の大きな変化の真っただ中にあるというようなことはよく言われますが、結局のところは私たちの多くも、彼と同じような人間なのではないかと思うのです。

「逃げぬことを美徳とするは、生きとし生けるものの中で人ぐらいのもの。努力すれば成る等と云うのは愚か者の戯言。為てみるまでは判らない等と云うのは痴れ者の譫言。不可能なことはどう努力しても不可能でございましょうし、可能か否かを見極めるのも早いに越したことはないのです。仮令見極め損ねたとしても、逃げていれば安全ではありましょう。勝ち負け等と云う下賤な価値判断でしかものを捉えることが出来ぬ愚劣なる者が、逃げることを蔑むのでございます。人には、向きも不向きもございます。いけないと思うたら」
逃げるが良しと存じますと、弔堂は厳しい口調で云った。
(p.397)

「勝負、正否、優劣、真偽、善悪、好悪とみなさん白黒をつけたがるではありませんか。高遠様もそうです。今の在り方が善いか悪いか、好きでしているのかそうでないのか、そんなことどうでも良いことではございませんかなあ」
(p.491)

 ネットにつながってみれば、日々膨大な量の情報や話題が行き交っているのを目にすることになります。中には賛否両論が沸き起こり、それを巡って激しい議論が戦わされることもしょっちゅうですが、時々それを見て辟易することがあります。無論、思想や主義、価値観や信条を持つことは結構なことですし、自分とは違う人間の考えを知ったり議論を戦わせたりすることもまた必要なことではあるでしょう。ただ、ネットを見ているとあまりにも意見の主張や議論が多すぎて、まるで世の中のどんなことに対しても自分なりの考えや立場を持たなければならないと強いられたり、そうしたものを議論で戦わせて白黒をつけなければ気が済まなかったりといったようなことが感じられてならないのです。思想や信条を持つも持たぬも本人の自由というのが本来の在り方ではないのではないかと思うのですが。何事にも白黒や勝ち負けを決めるのではなく、もっと良い意味でのいい加減さがあった方が、居心地の良い世の中になるのではないでしょうか。