BLACK DODO DOWN

HN:影月。「怪」のつくものを好み、特撮・ゲームを中心に、よしなしごとをそこはかとなく書き付くる。

怪談と名刀

怪談と名刀 (双葉文庫)

怪談と名刀 (双葉文庫)

 久々に怪談系統の本を読んだのでご紹介。古典的な怪談には類型的な話がいくつもありますが、その一つ、名刀を手にした侍(など)による化物退治を中心として、その名の通り「名刀」の登場する「怪談」ばかりを集めるという類を見ない視点で著された本で、昭和10年(1935)に出版されたものを見出した東雅夫氏によって、このほど平成の世に再刊となりました。

 もともとこの本は古今東西の日本の名刀の数々を、その銘の由来となったエピソードと共に紹介したもので、今回の文庫本はその中から普通の仇討などの話を除いて化物退治をメインに怪談としての話をピックアップしたもの。そのため大蛇、化け猫、化け狐、化け蛙、化け猿と、退治される化け物のバリエーションは実に豊富。中には山奥で山賊たちを従え、乳が出る女をさらわせては乳を吸い、乳を吸い尽くすと血を吸うというもはや化け物よりも恐ろしい老爺まで。こんな化け物たちを痛快に退治していく話が次々に続くわけですから、面白くないはずがありません。著者の本堂平四郎氏は自らも剣術の達人であり刀剣の収集家。刀を知り尽くした人の筆によるものだけあり、化け物退治の場面の描写はその殺陣までもありありと想像できる生き生きとした筆致。現代の小説の刺激に慣れた我々でも、全く古さを感じることなく夢中になれます。

 特に個人的に面白かったのは、「逆襲の大河童」。殿様から名刀を賜った侍が、たまたま池のほとりで昼寝をしていた河童相手に試し切り(ひどい)を試みたものの取り逃がし、数年後、傷を癒した河童が侍にリベンジマッチを申し込んでくる、という話。これだけでも聞いたことがないぐらいユニークな話なのですが、この河童が侍との戦いにおいて「鞭のごとき得物を揮い、進退敏捷にして目にも止まらぬほどである」というのがまた興味深い。日本人に最もなじみ深い妖怪である河童は、人間に勝負を挑んできたという話も多いのですが、ほとんどの場合その勝負の方法として選ぶのは、相撲。刀を手にした侍相手に、鞭を振るって戦う河童というのは、寡聞にしてこれ以外聞いたことがありません。一方で、この侍と河童の戦いを目の当たりにした周囲の人々には河童の姿が見えず、侍が一人で刀を振るっているように見えた、という点は、先述の河童との相撲を取っている人が一人で相撲をとっているように見えた、と多くの話で語られている点と共通していて、これまた興味深いところです。

 この本を読んで、かつて読んだある本に書かれていた、日本と西洋との「名剣」に関する思想の違いについて思い出しました。例えば、西洋で名剣と言えば真っ先に思い出されるアーサー王の「エクスカリバー」。この剣は単にすさまじい切れ味を誇るにとどまらず、石に刺さったまま誰も引き抜くことができなかったこの剣を抜いてみせたことによってアーサーはブリテンの王として認められた(「石に刺さった剣」とエクスカリバーは別物だという説もありますが)というエピソードからもわかるとおり、王権の象徴でもあります。剣を抜いてみせたことにより、アーサーは王となる。つまり、「名剣によって英雄が生み出される」という構造があり、その構造は西洋の他の英雄譚にも多く見受けられます。神や妖精などによって授けられ、並外れた切れ味や魔法の力を持った剣が多いのも西洋の名剣の特徴。

 対して本書に登場するものをはじめとする日本の名刀は、名のある刀工によって鍛えられた業物には違いないけれど、それ以上ではない「ただの刀」。その「ただの刀」が腕に覚えのある剣士によって振るわれ、化け物を退治するのに使われることによって、特別な銘を得て「名刀」となるという話が日本には非常に多い。そうして酒呑童子の首を斬った刀は「童子斬安綱」となり、茨木童子の腕を落とした刀は「鬼切」となり、土蜘蛛を退治した刀は「蜘蛛切」となった。それは「英雄によって名刀が生み出される」という構図であり、西洋とは真逆と言えるでしょう。これを何か困難にぶつかりそれを解決する必要に迫られたとき、道具や手段にこだわり合理性を重んじる西洋と、気合や覚悟といった精神性を重んじる日本、という思想の違いの一つの表れ・・・ととらえるのは、強引な解釈でしょうか。いずれにせよ、一振りの刀に命を預け、人智を超えた化け物に勝負を挑んだ強者たちの姿には、日本人として心を揺さぶられずにはいられません。