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HN:影月。「怪」のつくものを好み、特撮・ゲームを中心に、よしなしごとをそこはかとなく書き付くる。

語ろう! 555・剣・響鬼 感想

語ろう! 555・剣・響鬼 【永遠の平成仮面ライダーシリーズ】

語ろう! 555・剣・響鬼 【永遠の平成仮面ライダーシリーズ】

 平成ライダーをファンの目線から語りまくろうという主旨のもとに出版された「語ろう! クウガ・アギト・龍騎」。あれから早一年半。ついにその続刊が発売されました。表紙をめくって最初に飛びこんでくるのは「それでも明日を探せ」という言葉。ファンにとっては言うまでもなく、「仮面ライダー剣」前半の主題歌である「Round ZERO〜BLADE BRAVE」の一節ですが、この本で取り上げているのはまさにこの言葉通り、クウガ龍騎の初期三作である程度の基礎を固めた平成ライダーシリーズが、さらにその先へと進んでいくための模索を続けた三作品・・・555、剣、響鬼。ファンの間でも様々な評価が入り乱れるこの三作品について語るだけあり、内容は前作以上の情報量の多さと密度の濃さ。一括りに感想をまとめるというのは土台無理な話なので、特に感銘したところを取り上げながら、私なりに「語ろう」と思います。

◆鎧武を終えて・・・
 いきなり本来のテーマである「555・剣、響鬼」から外れてしまうのですが、今回の論客の中で最も得るところが大きかったのは、「鎧武」を終えたばかりの虚淵玄氏の話でした。「クウガ・アギト・龍騎」ではあくまで一人のファンとして平成ライダーの魅力について語り、私もそれを読みながら「虚淵さんの書くライダーも見てみたいなぁ・・・」などと思っていたら、それから間もなく鎧武の制作発表があってものすごく驚いたのですが。そうして鎧武のメインライターという大役を終えたばかりの虚淵氏によって語られるのは、初めて平成ライダーの執筆を任された脚本家が直面した、予想以上に制約の多い現実でした。具体的に挙げると・・・

  • 暴力的な描写はなるべくやめてほしいと言われた。怪人に殺されて犠牲者が出るところを描くのも同様。
  • ビートライダーズは大人の支配に抗っている子供たちとして描きたかったが、反体制的な子供たちというのはNGだと言われ、ストリートダンサーという立ち位置にせざるを得なかった。
  • フォーゼの時に主人公がリーゼントと言うだけで抗議の嵐があったことが恐怖症になってしまい、抗議されそうなことは先回りしてやめるというのは徹底していた。
  • 本当は序盤は戒斗を勝たせ続けて紘汰にとっての圧倒的な壁となるキャラにしたかったが、とにかく主役を勝たせろという様々な要請により、ことごとく戒斗の白星を潰さざるを得なかった。
  • 終盤で戒斗が願っていた「弱者が踏みにじられない世界」は、本当は「弱者が許される世界」と言わせたかったが、なぜかダメだった。

 怪人によってガンガン人が殺されていた555あたりまでと比べて様々な規制が強くなっていることは見ている側としても感じてはいましたが、ここまでとは・・・と愕然としました。ビートライダーズに関しては見ていて明らかに作品から浮いていて、「本当はIWGPみたいにカラーギャング同士の抗争とかにしたかったんじゃないかな・・・」とは思っていたので、やっぱり・・・と思いました。こうした様々な制約によって忸怩たる思いを感じつつも、これだけは伝えなければ、これだけはやらなければという核になる部分については無事やり遂げて一年間の仕事を全うできたことを虚淵氏は安心し、満足することができているようなので、何よりです。本当にお疲れ様でした。

◆キングフォームの特異性
 鈴村健一さんのインタビューで、「最初は上っ面の言葉しか語れなかった剣崎が、力を得ていくことによって実感を伴った言葉を語れるようになる。キングフォームはその象徴であり、ちゃんとそこにドラマとしての必要性がある」という主旨の言葉があり「その通り!」と大いにうなずきました。鈴村さんの言うとおり、いわゆる「最強フォーム」は登場する必然性が感じられないものがほとんど(装甲響鬼なんかはその最たる例)のなか、キングフォームはこれがなければあの最終回にはたどり着かないという、ほとんど唯一と言っていいドラマ的な必然性のある最強フォームなんですよね。全身にアンデッドの象徴である紋章が配されたあのデザインも、鈴村さんの言う「力の集中」とともに、「アンデッド達が剣崎の全身にとりついている」と見ることでその後の剣崎の運命を象徴するようで、見事にドラマとの調和を見せています。

◆高寺Pと白倉P
 本書のラストを高寺成紀P、白倉伸一郎P、井上敏樹氏の順で締めくくったのは、これ以上ない構成でした。特に、平成ライダー史上でも一、二を争う大事件となった「響鬼プロデューサー交代騒動」をリアルタイムで経験した一視聴者としては、得るところが大きかったです。
 高寺Pと白倉Pの違いについては、本書において井上伸一郎Pがわかりやすく評しています。井上P曰く、高寺Pは「徹底した積み重ね」「異常に粘着質」「歩みが非常にゆっくりで、見てて多少イライラすることもあったりするけど、ある一定のラインを越えると、途端にそれが活きてきて、すごい快感に変わってくる」。高寺Pの設定にかけるこだわりようは本人を知らなくてもクウガ響鬼を見れば一目瞭然。響鬼の放送当時の思い出として特に印象に残っているものとして、「関東十一鬼」の設定に触発されてオリジナルの鬼の設定を考える、というのがネットのあちこちで見られたことがあります。ああいうムーブメントが成立しえたのも高寺Pのこだわりぬいた設定があり、それに基づいて生み出された世界に深く魅せられた人が多かったのではないか、と。一方、設定へのこだわりとともに高寺Pから感じるのが、理想の高さ。クウガで「きれいごとだからこそ現実にしたいじゃない。本当はきれいごとがいいんだもん」という雄介のセリフがありますが、このセリフこそ高寺Pの思想そのものではないかと思います。あの設定の緻密さも、ただの言葉だけではきれいごとで終わってしまうことをきれいごとで終わらせないためのリアリティをドラマに与えるための必然としてああなったのではないか、とさえ思えます。しかし、クウガよりもさらに高いところを目指した響鬼は、その設定の緻密さをもってしてもドラマの中の理想とドラマの外の現実とをうまく添わせることができなかった・・・。響鬼について自らが振り返ることを「敗軍の将、兵を語る」とまで評する高寺Pの言葉からは、痛みが伝わってきました。
 一方白倉Pはといえば、「まずはパッと面白そうな要素をばらまいて、そこからいいものを拾ってくる感じ」「コンセプトをつくるのに長けている」。龍騎ブレイドでの劇場版での最終回先行公開、ディケイドでのオールライダー大集合、鎧武での昭和VS平成など、白倉Pが仕掛人となったイベントを振り返れば、その評価もうなずけます。悪く言えば話題性先行型ともいえ、そこには功罪入り混じっており、たとえば「スーパーヒーロー大戦Z」のときは、宇宙刑事以外のメタルヒーローが登場することをウリの一つと謳いながら、実際はちょっと登場してメタルヒーローキーを渡すだけというあんまりな出番で、「こんな扱いなら出してくれなかった方がよかった・・・」とがっかりしたものです。しかし本書を読めば、アギトの企画当時は平成ライダーどころか日曜朝8時という放送枠を守ること自体が切迫しており、白倉Pとしてはどんな手を使ってでもそれを守らなければならなかったという事情があったことがわかります。物議を醸した響鬼のプロデューサー交代騒動でも、「とにかくキャストを守ること」を一番大事なこととして掲げ、ひとりの脱落者も出さずに番組を最後まで導くことが至上命題だったということを知れば、また違った評価ができるでしょう。この話を聞いて、最初の「仮面ライダー」で藤岡さんがバイク事故で重傷を負い、降板やむなしという意見が出る中、「藤岡君は絶対に切らない!」と宣言した故・平山亨Pのエピソードを思い出しました。

◆成功したがゆえの不安
 再び虚淵氏のインタビューに戻りますが、今回一番ハッとさせられたのは、以下の言葉でした。

ライダーがというより、ニチアサの平成ライダーという今の枠組みがですね。先行きどんどん難しくなっていくかもしれません。
なまじ成功しちゃって、ビッグコンテンツになっちゃったがゆえに、そこに絡む利権というか、失敗できないプレッシャーというか、それがのしかかるにつれて、どんどん作るのが難しくなっていくと思いますね。だからこそ、武部さんもこんな企画(鎧武)をやろうとしたのかもしれないですけどね。
要するに、いったん壊すというか、他の可能性もあることを証明しておかないと、先細りになっていくぞという焦りがあったんじゃないかなと。「こういうつくり方もできる」というプロモーションというか。
じゃないと本当に、ひとつのつくり方が正攻法の方法論として固定化していっちゃって、先行きどんどん窮屈になっていくでしょうし、なまじ成功すればするほど、そこは難しいんですよね。だって、一度儲かっちゃったものをチャラにできる経営者は普通いませんから。

ただの視聴者として見ていると忘れがちですが、平成ライダーもまた多くの人や企業の利権が絡む番組であり、常に結果を求められているのです。一度大ヒット商品を飛ばした企業が、そのときのやり方に固執するあまりジリ貧となってやがて倒産する・・・なんて話はよく聞きますが、この先平成ライダーがそんなかたちで終焉を迎える可能性が低くはない、という事実をこの虚淵氏の言葉から気づかされ、背筋が寒くなりました。視聴者として見ていても、電王での爆発的なヒットの後、平成ライダーは本質的な意味では本質的には変わっていないんじゃないか、という思いを漠然と抱いていただけに、余計に。さらに言えば平成ライダーは民放、それも他のドラマとは違いおもちゃや関連グッズの売上が制作に大きく影響する極めて特殊な番組であることを考えれば、さらにこの事実は重みを増すことになります。そして、それを解決するための確たる方法などあるわけがないので、制作側は年々厳しくなっていく制約と年々重くなっていく期待の中で、次のライダーの在るべき姿を手探りで模索していくしかないのです。石ノ森先生の原作漫画版「仮面ライダー」の最後、ショッカーは日本政府が極秘で進める計画を乗っ取るほどの力をもつ存在、いわば日本という社会そのものであり、仮面ライダーはそれと戦わなければならないことが明らかになりますが、同じように平成ライダーという番組自体、これからも制約と期待を課してくる社会とぶつかりながら、「変身」を繰り返していかなければならない仮面ライダーなのではないでしょうか。

◆総評
 この本の帯で「激動期」と評している通り、555〜響鬼の三作品(個人的には次のカブトも含めたいのですが)は龍騎までの三作品でひとまずの基礎ができた平成ライダーをどう発展させていくかについて、毎年全く別の角度からの模索が行われた作品でした。そこに秘められた、0から物を作る以上の「生みの苦しみ」に、この本を読んでいる間終始圧倒されっぱなしでした。私自身振り返ってみれば、龍騎あたりまでは番組が終わって次もライダーであることがわかると「もうライダーはやめてもいいんじゃないか」と思っていたのが、「次はこういうライダーか」とライダーが続くことを当たり前に受け止めるようになったのがこの三作のあたりだったので、このときに生みの苦しみを味わった人たちがいたからこそ、「平成ライダー」は「シリーズ」となれたのです。日曜の朝8時という早い時間、子供という大人以上に興味を引くことが難しい視聴者をメインターゲットとし、おもちゃや関連グッズの売上が制作を左右する番組を、一年続ける。そんな何から何まで特殊な要素だらけの番組が、途絶えることなくもう15年も続いていて、さらにその先へと進もうとしている。この事実の凄さをどう表現すればよいのか。そしてそれを支えてきたのは、子供たちに何を伝えればよいかを血のにじむような思いで考え続けた大人たち。彼らに感謝を捧げながら、この番組を見続けることが視聴者としての自分の務めだと、改めて襟を正す思いでした。平成ライダーは作る側も見る側も、いまだ「誰も旅の途中」なのです。

 最後に一つだけ苦言を呈させてもらうと、前作ではライムスター宇多丸さんや武富健治さん、切通理作さん(そして当時は鎧武を執筆する前だった虚淵さん)と、ライダーあるいは特撮番組の制作とは全く関わっていない、有名人だけど「ただのファン」の人が論客の半分を占めていたのですが、今作ではその条件にあてはまるのは二ノ宮知子さんだけで、他はプロデューサーや脚本家、俳優や声優として何らかのかたちでライダーや特撮番組の制作にかかわった人ばかりだったので、「ただのファンの目から見たライダーの魅力について語る」というこのシリーズならではの一つの視点に置いてはちょっと物足りない・・・という気がします(井上伸一郎さんや鈴村さんのインタビューは、制作側でもかなりファン目線ではありましたが)。激動期の三作品を取り上げるうえでは、制作側のインタビューに重きを置かざるを得なかったという事情があったのかもしれませんが。個人的には特に、響鬼について民俗学、宗教学、伝統芸能などのアカデミックな観点からその魅力を分析した名著「響鬼探究」をまとめた東雅夫氏のインタビューなどを楽しみにしていたのですが。

響鬼探究

響鬼探究

 勝手を言ってしまいましたが、この本を出してくれたことに心からの感謝を。そして「語ろう! カブト・電王・キバ」の発売を心待ちにしております。