BLACK DODO DOWN

HN:影月。「怪」のつくものを好み、特撮・ゲームを中心に、よしなしごとをそこはかとなく書き付くる。

シン・ゴジラ 感想

 シン・ゴジラ、観てきました。観終わったあとしばらくの間は言葉もないまま自宅に帰り、パソコンの前に座ってこの記事を書いているのですが、何をどこから書けばいいのやらいまだにまとまりがつかないという、それほどまでに衝撃的ですさまじい映画でした。とりあえずネタバレはまだ見ていない方の楽しみを大きく損なうことは確実ですので、できるだけ具体的なところには踏み込まないよう気を付けながら、なんとか魅力を伝えていければと思います。

ゴジラ「初体験」
 シン・ゴジラの大きな特徴として、1954年の第一作以降に日本で作られたゴジラ映画としては初めて、第一作でのゴジラ襲来がなかった世界、つまり「人間が初めてゴジラという存在を目の当たりにする世界」が舞台であるということが挙げられます。これを初めて聞いた時、思い切った決断をするものだと思いましたが、実際にこの舞台設定は予想以上に効果的に働いていました。突如出現したゴジラに対して人間はその都度対策を講じていきますが、ゴジラはそんな彼らの常識や希望的観測をあざ笑うかのようにその力を見せていく。海から来た生き物なのに陸に上がってくる、自衛隊の兵器が通用しないなど、これまでのゴジラを観ている我々にとっては周知の事実に驚く登場人物たちはある種滑稽にすら見えるのですが、やがてゴジラはそんな我々の「これまでのゴジラの常識」すら超えるとんでもない力を披露していき、気づけば我々も登場人物たちと同じ視点でゴジラの脅威を「初体験」していくことになっている。これは極めて秀逸な仕掛けでした。

◆最も神に近づいたゴジラ
 あるときは核や戦争の暗喩、あるときは大自然の暴威の象徴と、作品によって様々な役割を与えられてきたゴジラですが、今回のゴジラは・・・。ギャレス監督のゴジラの場合、圧倒的な力を持っていても地球の自然の一部といえる存在ではあり、劇中では芹沢博士に「自然の調和を保つ存在」とまで言われていました。しかし今回のゴジラはといえば、もはや自然という枠を逸脱した、放っておけば間違いなく世界を滅ぼす、この世にあってはならない存在と言っていいでしょう。その力が引き起こす破壊はただただ圧倒的で、もはや怒りや悲しみといった一般的な感情を抱くことさえできない。東日本大震災の際、津波によって街が破壊されていく様をTVで茫然と見つめることしかできなかったことを思い出しました。ゴジラの英名表記「GODZILLA」には「GOD」が含まれてることは今作でも劇中で指摘されていますが、今よりもずっと人間が無力だった時代、人間たちが「神」と呼んで恐れた死や災害といった抗うことのできない荒ぶる絶大な力を振るうモノとは、こういうものだったのではないかと思わせるものが今回のゴジラにはあります。「シン」という言葉には「新」や「真」といった複数の意味が込められているのでしょうが、その中には間違いなく「神」も含まれるでしょう。歴代ゴジラの中でも最も「神」に近づいたゴジラと言えるでしょう。

◆84年版ゴジラ、32年目の完成
 本作のキャッチコピー「現実対虚構」には「ニッポン対ゴジラ」とルビが振られていますが、これは比喩ではなくこの映画の内容ズバリそのものでした。主役こそ内閣官房副長官の矢内蘭堂ですが、この映画にはそれぞれに細かく役職が設定された政治家、官僚、自衛官自治体職員といった大量の登場人物たちが登場し、日本という国を守る立場にある彼らが総力を結集し、ゴジラという未曽有の危機から日本を守るべく戦う姿を描いています。ゴジラが前述したような存在であるからこそ、科学や軍事力だけでなく政治や外交といった面においても一人一人が全力を発揮して一丸となって当たらなければこの危機を乗り越えることはできないというリアリティを恐ろしいほど突き付けてきます。これはゴジラ映画というよりは、「妖星ゴラス」に近いのではないでしょうか。ゴジラとの最終決戦において、祈るような気持ちで見守ったのは、これが初めての経験でした。
 怪獣映画は「オチのつけ方」が難しい。「ゴジラ対○○」のように二体以上の怪獣が戦う映画ならば、最後にはゴジラが敵の怪獣を倒して悠々と海に帰っていくところを描けばそれでいいのですが、怪獣が単独で登場する映画はそう単純にはいきません。1954年の第一作ではオキシジェンデストロイヤーという核をも上回る力を秘めたガジェットでゴジラを抹殺するという方法をとりました。これはともすれば安易なオチとして作品を台無しにしかねる危険性をはらんでいますが、開発者である芹沢博士がその使用に至るまでの苦悩とゴジラとの「心中」に及ぶまでの過程を丹念に描くことによって、物語を美しくも悲しく締めくくっています。それから30年を経て製作された1984年版の作品では、最終的にゴジラは超音波によって誘導され、人為的に噴火を誘発された三原山の火口に落とされるという結末を迎えますが、これは説得力を欠く上に芹沢博士の悲劇のようなドラマチックな要素が何もないものでした。
 54年版にせよ84年版にせよ、最終的にゴジラを倒したのは一人の科学者の発明でした。しかし、「シン・ゴジラ」はそうではない。ゴジラという危機を乗り越えるためのカギとなるのは天才の発明ではなく、優秀ではあるけれど天才ではない人々がそれぞれ全力で絞り出した叡智の結集であり、それが物語に説得力と重厚なドラマを与えていく。人類の歴史においては一握りの天才が世界に革新をもたらしてきたこともありますが、あくまでそれは例外であり、数多くの人々が力を合わせて社会を発展させてきたというのがその本質であり、この映画もそれを敷衍するものであると思います。登場人物の一人が発する「この国はまだまだやれる」という言葉こそこの映画のテーマであり、東日本大震災を経て閉塞感が強まる一方のこの国に対する庵野監督のメッセージなのではないでしょうか。「ゴジラが現実に現れたらどうするか」という、84年版で掲げられながらも描き切ることのできなかったテーマを、庵野監督は30年越しにようやく完成させてくれたと思います。

◆過去への決別と敬意
 1954年版の物語を前提としない全く新しい舞台。少数の登場人物が物語を動かしてきた過去の怪獣映画とは対照的な、多数の登場人物による群像劇。超科学や超兵器の登場しない、現実に則した怪獣への対応。この映画において庵野監督は、過去のゴジラ映画と決別するかのようなこれまでのセオリーを覆す様々な機軸を導入しています。
 一方で、日本の映画監督の中でも特撮に関しては指折りの深い造詣を誇る庵野監督が過去の作品に対して経緯を表しないはずがなく、特に音楽や音響に関してはそれが色濃くにじみ出ていました。ゴジラや兵器は徹底的にリアルに描かれていますが、ゴジラの尻尾が地を打つ音や砲弾の炸裂音などは、昭和のゴジラ映画を見慣れた者にはおなじみのSEを使用しています。特にある効果音にあるヒーローの必殺技のSEが使われていたのには驚きました。また、音楽を担当しているのは庵野監督とはエヴァンゲリオンでタッグを組んだ鷺巣詩郎氏であり、エヴァを見たことのある人ならニヤリとする曲も使われているのですが、ここぞという場面では伊福部昭氏による名曲の数々が効果的に使用されています。特に最終決戦におけるBGMの使い方は素晴らしい。

 「ゴジラ ファイナルウォーズ」を持って日本のゴジラシリーズが打ち止めとなって以降、新たにゴジラ映画を作るには壁となる二つの出来事があったと思います。一つは東日本大震災とそれに伴う原発事故。1954年版がビキニ環礁での水爆実験と第五福竜丸の被ばく事件がなければ生まれなかったのと同じように、今ゴジラを作るとなれば、東日本大震災原発事故をふまえたものにすることは必須条件になると思っていました。もう一つはギャレス監督のGODZILLAや「パシフィック・リム」のようなハリウッド製の怪獣映画の公開。人も金も技術も、何もかもが日本とは桁外れのハリウッドのリソースが投入された怪獣映画に、私をはじめ日本の特撮ファンは強い衝撃を受けました。日本の怪獣映画がこれを超えるのは、これまでのやり方では到底不可能であることは明白でした。
 庵野監督がゴジラの新作を撮ると聞いた時、あの庵野監督とはいえ、果たしてこの二つの高い壁を乗り越えてファンを納得させることのできる作品を作ることができるのか、正直なところ半信半疑でした。しかし庵野監督は見事にこの二つの壁を乗り越えて、今の時代の日本にゴジラを復活させることの意義をこれ以上ないくらい明確なかたちで我々に示してくれました。これだけの作品を作り上げたことは、単にゴジラ映画の枠内にとどまらず、日本映画全体にとっての希望となりえるでしょう。ゴジラを、怪獣映画を愛する一人のファンとして、心から敬服し、感謝したいと思います。第一作と同じく、この映画も見るたびに新たな発見のある作品であると確信しました。最低でももう一回は劇場に足を運んで観たいと思います。