BLACK DODO DOWN

HN:影月。「怪」のつくものを好み、特撮・ゲームを中心に、よしなしごとをそこはかとなく書き付くる。

どこの家にも怖いものはいる 読書感想

 久しぶりに怪談系統の本の読書感想。著者は「厭魅の如き憑くもの」などの「刀城言耶シリーズ」などの著者・三津田信三氏。三津田氏の著作を読むのはこれが初めてでした。

 中学時代から三津田氏のファンであるという若い怪談好きの編集者・三間坂秋蔵と親しくなった三津田氏は、三間坂から奇怪な体験の綴られた記録を提供される。一つは2000年代、近畿地方のどこかと思われる街の一戸建てに住んでいた主婦の日記。もう一つは戦前、関東地方のどこかにいた少年の口述を記録したと思われる手記。二つの記録は時代や場所だけでなく話の内容の大部分まで全く異なるものだったが、どこか奇妙に類似しているように思える不気味なものだった。その奇妙な類似感覚が気になり、さらに深く調査を進める二人のもとに、同じように奇妙な類似感覚のある第三、第四、そして第五の物語までが集まった時、三津田氏の下した結論は・・・。

 ある怪談を発端として、作家とその知人が調査を進めていく、というドキュメンタリータッチ(巻末には「参考文献」というかたちで前述の5つの物語の掲載されている書物を掲載)の怪談ということで、読んでいる間は以前ここでも感想を書いた小野不由美氏の「残穢」を読んでいた時と同じような気分を覚えました。ただし、「残穢」がある怪異の出所をたどっていったらそれが芋づる式に伸びていき、最終的には自分たちが追っていた怪異はある大元の怪異からあちこちに枝葉のように伸びていったものの末端に過ぎなかったことが明らかとなったのに対し、この本の場合はある意味では「残穢」とは対照のようになっているようにも思えました。どういう意味か、というのはこの本のオチに関わるところなので、ここで詳しく語るのは避けた方がよいと思いますが。また、実話怪談系の話では実際に何か障りが起きかねないほどヤバい怪談を聞いてしまった著者が、毒液を水で薄めるようにその話を本に書いて不特定多数の読者に拡散することで回避しようとするのがよくありますけど、本書にもそういう意図は見えますね(笑)。にもかかわらず、面白くて思わず一気読みしてしまうのが困ったところ。

 しかし本書を読んで、以前から抱き続けている疑問が再び頭をもたげてしまいました。ちょうど「残穢」の中にその疑問を現すのにふさわしい、以下のような文章がありました。

もしも無念の死が未来に影響を残すのだとしたら、それはいったいどのぐらいの期間なのだろう。無限なのだろうか、それとも有限なのだろうか。有限だとすれば、何年なのだろう。何十年−あるいは、何百年なのだろうか。

 無念を抱いて死んだ人がいて、その人がその恨みのエネルギーを糧に幽霊となって祟りをなす、というのは物理的にはともかく感覚的にはとりあえずそういうことはあるかもしれないと思えます。ただ、何事であれ物事を継続するにはエネルギーが必要となるわけで、どれだけ死んだときの恨みが深くても、果たしてそのときの恨みのエネルギーだけで何十年、何百年と「うらめしや」というネガティブなモチベーションを維持したまま幽霊として祟り続けることができるのか。途中で疲れたり飽きたりして「もういいや」(と思ってやめられるかどうかは知りませんが)と思う幽霊はいないんでしょうか。それとも、人間は死んだ時点で人間でもこの世の者でもなくなってしまうのだから、もはやこの世の理とは無縁に延々と祟り続けるのか。そこまでいってしまうとそれはもはや人格のある存在ではなく「現象」とか「システム」とか呼ぶべきものではないのか。自分も恨みを抱いて死んだらそういうものになってしまうのかと思うと・・・それもまた、怖い。