- 作者: 京極夏彦
- 出版社/メーカー: メディアファクトリー
- 発売日: 2012/11/30
- メディア: 単行本
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読了。「幽談」「冥談」に続く京極夏彦氏の短編怪談集「○談」シリーズ(と呼んでいいのかはわかりませんが)の第3弾。
全部で8つの話が収められており、どの話も確かに怖くはあるのですが、それ以上になんというか、気味が悪い。幻想小説と怪談が厭な感じに混ざり合ったというか、読んでいて奇妙に眩惑されるような雰囲気になり、「眩談」とはよくつけたものだなと思いました。怖さという点においては「もくちゃん」が印象に残りますが、「歪み観音」は怪談というよりはSF的な怖さがあります。「けしに坂」は、もし自分が同じ怪異に遭ったら、と考えると怖いですね。自分が忘れてしまったこと、それも、覚えていると怖くて怖くて生きていられないから忘れた、というようなことが、もし自分にもあったとしたら。そして、それを突然思い出すようなことになったら。忘れてしまっていることは、思い出すまでは存在しないも同じ。だからこそ、ひょっとしたら忘れているだけで自分にもあるのかもしれない、本当に自分にはそんなものはないと言い切れないのが怖いです。また、語り部が現実に目の前で起こっている怪異を怖いというよりただ厭なものとして見ている「シリミズさん」の視点も面白いですね。
京極氏の作品には大抵、普段生活している中ではなかなか思い至らないような考え方が出てきてハッとさせられることがあり、それも京極作品を読む楽しみになっています。今回の作品でハッとさせられたのは、「もくちゃん」の中での次の一節でした。
何か起きてからでは遅いから、何か起きる前に何とかしておくというのが最近の風潮である。
その結果、何か起きてしまった時に何もできない、ということになっているような気もするのだが、どうなのだろう。
どれだけ念入りに予防したって、その予防線を上回る出来事というのは起きてしまう。
起きる時には起きるものなのだ。
だから、何か起きたときにきっちり始末をつけられるように用意しておくことこそが危機管理というものであるようにも思うのだが、どうも最近は違うようである。
危なっかしいものはとりあえず排除してしまう---それが正義だと、かなり多くの人が考えているのではないだろうか。
少し前までは、危なっかしいものであっても排除することはせず、寧ろ上手に共存していくことを考えたものだった。
話の本筋にかかわる言葉ではありませんが、思わずうなずいてしまいました。