ホームページに載せる小説やこのブログの記事を書いていると、自分の表現力のなさにげんなりすることがままあります。そんな折、下記の記事を読んで佐藤信夫氏の著書「レトリック感覚」を知りました。
あなたの文章に輝きをもたらす『レトリック感覚』
http://d.hatena.ne.jp/RyoAnna/20130120/1358655713
- 作者: 佐藤信夫
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1992/06/05
- メディア: 文庫
- 購入: 10人 クリック: 128回
- この商品を含むブログ (64件) を見る
さて、この本の中で取り上げられているレトリックの技法の中に「直喩」というものがあります。国語の授業でも習うとおり、これは「〜のような」「〜のように」といったかたちであるものごとを別の何かに例えて呼ぶ、レトリックの中でも最も基本的な技法です。ただし、それは決して単純な表現ではありません。本文の中では「白昼のような夜」「死のような生」という直喩さえ、ことばとして言えないことはない、「常識的に似ても似つかぬふたつのものをつなぐ直喩も、じゅうぶんに成立するのである」(p.84)と佐藤氏は述べておりますが、なるほどなぁと思うと同時に、下記のセリフを思い出しました。
この私の眼前で 死人が歩き 不死者が軍団を成し 戦列を組み前進をする
唯一の理法を外れ外道の法理をもって通過を企てるものを
教皇庁が 第13課が この私が許しておけるものか
貴様らは震えながらではなく 藁のように死ぬのだ
(「HELLSING」6巻 p.60)
平野耕太先生のマンガ「HELLSING」より、ミレニアムの吸血兵士部隊に包囲され絶体絶命のインテグラの前に現れたアンデルセン神父が吸血兵士たちに向かって言い放ったセリフ。先ほどの佐藤氏の直喩についての論説で真っ先に思い出したのが、この「藁のように死ぬのだ」という文句でした。あえて言うまでもなく、藁は死ぬものではありません(麦や稲の茎が枯れたものという意味においては、最初から死んでいると言えるかもしれませんが)。にもかかわらず「藁のように死ぬ」というというこの言葉から我々は、これからアンデルセン神父の手にかかる兵士たちの死にざまがどのようなものになるか、ありありと想像できてしまう。初めてこのセリフを見たときはなんとすごい言い回しだと驚きましたが、こういう表現も成立してしまうというところが、まさに言葉の奥深いところです。
平野先生と言えばまるで舞台演劇のように大仰な、思わず声に出して読みたくなってしまう独特の「平野節」と称される言い回しが魅力の一つですが、改めて読んでみると豊富なレトリックが詰め込まれていることがわかります。「諸君、私は戦争が好きだ」で始まる有名な少佐の演説なんて、列叙法(ものごとを念入りに表現するために同格のさまざまのことばを次々とつみあげていく表現法)のかたまりといってもよいのではないでしょうか。「レトリック感覚」の中で取り上げられている例文は主に明治から昭和にかけての小説からとられたものですが(書かれたのが昭和53年なので当然ですが)、現在の小説やマンガの中からレトリックの使われている表現を探してみるというのも、面白い知的なゲームでしょう。久しぶりに詳しく勉強してみたいと思えるものに出会えました。