BLACK DODO DOWN

HN:影月。「怪」のつくものを好み、特撮・ゲームを中心に、よしなしごとをそこはかとなく書き付くる。

書楼弔堂 破暁 感想

 今年になってはじめての地元の図書館の開館日だったこのあいだの日曜日、予約していた本が貸し出せますという電話が届いたので、喜び勇んで図書館へ。予約していたのは京極夏彦先生の最新刊。当然ようやく読める嬉しさに心躍らせたわけですが、その一方ではたと気が付きました。新年最初に図書館から借りて読む本が、表紙にでかでかと「弔」と書かれた本というのはどうなんだろう、と・・・。

書楼弔堂 破暁

書楼弔堂 破暁

 舞台は明治二十年代半ばの東京。病気療養を理由に休職し、妻子を実家に残して辺鄙な郊外に家を借りて暮らす元旗本の嫡男・高遠は、病気が治っても家には戻らず働きもせずただぶらぶらと無為な日々を送っていた。読書好きの彼が馴染みの本屋の奉公人から近所に本屋があることを聞き行ってみると、そこは街燈台のような奇妙な三階建てで、表には看板もなく軒に下げられた簾にただ一文字「弔」と書かれた半紙が貼られているだけの、到底本屋には見えない奇妙な建物。しかし一歩中に入れば、訪れる者はみな整然と並べられた無数の本の大伽藍に圧倒される。この奇妙な本屋・弔堂の主人を務めるのは、元僧侶ということ以外は一切が謎に包まれた、しかし驚くほどの知識と見識を備えた男。店主は云う。自分はここに死蔵されている、すなわち「死んでいる」本を、ふさわしき人に売ることで「供養する」ためにこの店を営んでいるのだ、と。店を訪れる客の言葉に耳を傾け、店主は客に問う。「どのような本をご所望ですか」

 弔堂を訪れる客として登場するのは、幕末から明治にかけて大きな業績を残し、後世にまでその名を残すことになる偉人・傑物たち。ある者はこれまでに歩んできた道に、ある者はこれから歩まんとする道に、それぞれに悩みや迷い、瑕や後悔を抱えた彼らの言葉に耳を傾け問答を交わし、彼らにふさわしい本、必要な本を見極め、その本を売ることによって「本屋に人は救えません」と豪語し、人ではなく本のために店を営む店主は結果として人を救う。相手の抱える歪みを言葉の力で妖怪というかたちに変えたうえでそれを祓う「憑物落とし」を行う京極堂シリーズの京極堂、まともなやり方ではどうにもならない難題を巧緻な仕掛けによって妖怪や奇怪な因縁の仕業に見せかけることで解決する巷説百物語シリーズの又市一味とはまた異なる手法での問題解決の仕方です。加えて、弔堂の店主は決して客の生き方や信条を否定しません。何か心得違いをしているなど正すべきところは正すけれど、客に対して今の自分はこれでよいのだという納得を与え、人生の一助となる本を売ってその背中を後押しする。本屋を客が訪れ、店主が本を売る。繰り広げられるのはただそれだけの、当たり前のことなのに、一話を読み終えるごとに客と同じくこちらも晴れやかな気分にさせてくれます。

 この本は小説であると同時に、「本」というものに対する京極先生の思想や信条、なんなら「愛」と呼んでもよいものの集大成と言ってもよいでしょう。本を読むとはどういうことか。本を買うとはどういうことか。そもそも「本」とはなんなのか。本が好き、読書が好きという方が読めば、きっと何かしら考えさせられるところや心動かされるところがあるのではないでしょうか。

 初めに書いたように新年早々縁起でもない本を手に取ってしまったかなと思いましたが、結果としてはその逆、むしろ年の初めにこの本を読んで得をしたような気持ちになりました。まだまだ書き足りないところもあるので、後日自分なりに心を動かされた一節も交えて、もう少し感想を書いてみたいと思います。