BLACK DODO DOWN

HN:影月。「怪」のつくものを好み、特撮・ゲームを中心に、よしなしごとをそこはかとなく書き付くる。

仏壇のはなし

とはいっても、怖い話などではないのでご安心を。

 我が家には、私が生まれる前から置かれている仏壇があります。祭られているのは、私が生まれる1年前に亡くなった祖父。特に豪華な造りでもなく簡素な仏壇ですが、生まれてから今日に至るまでずっと、仏壇は私の日常風景の中にあり、朝には線香を供えて鉦を鳴らし、お盆にはお寺からお坊さんがやってきて仏壇の前でお経をあげるというのが、当たり前の日常となっています。とはいえ、私が熱心な仏教徒かといえば全くそんなことはなく、正月には神社に初詣に行きお盆には墓参りに行きクリスマスにはチキンを食べる、この国の大多数を占める人たちと大差はありません。ただ、こういう環境で育ったおかげで小さいころから墓参りに行くのが大好きな人間になったのは確かですし、目に見えないものや科学では説明のつかないものに強い興味を持つようになったのも、仏壇のある家で育ったことが一因であると思っていますので、仏壇というものは私という人間を形作るうえでその一翼を担ったものであると思っています。

 その仏壇を、諸般の事情で近くに住む叔父の家に移すという話が持ち上がっています。今まで家にずっとあり、人格形成にも一役買ったものがなくなってしまうということそのものも寂しいのですが、それとは別の問題もあります。私は今も出勤する前は仏壇に手を合わせているのですが、このとき祖父の冥福を祈るだけでなく、「特にアクシデントなどが起こりませんように」というようなささやかな願い事もしています。無論、そういう現世における利益に関する願い事は本来仏教の守備範囲ではなく、お稲荷さんにするべきものだというのは承知しています。そもそも、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がある通り、願い事というのは自分にできるだけのことをやったうえで、それでもなお自分にはどうにもならないことがあるときにこそするべきものであり、できるだけのことをやったと胸を張って言う自信のない私のような人間にはその資格はないでしょう。しかし、それでも何かにすがりたくなってしまうときがあるのが人のサガ。そう考えると私にとっての仏壇とは、願いや祈りを届けるための端末としても重要な存在だったのだなと、初めて気づきました。しかし、現代においては仏壇や神棚のようなものがある家の方が少ないでしょう。そういう家に住む人たちは何かに願ったり祈ったりしたくなったとき、何を通じてそれを届けるのでしょう。もちろん、必ず仏壇や神棚が必要なわけではありませんし、ただその場で祈ればよいのでしょうが、仏壇がなくなった後の私にとっては、きっとそれでは物足りなく感じてしまうでしょうね。