BLACK DODO DOWN

HN:影月。「怪」のつくものを好み、特撮・ゲームを中心に、よしなしごとをそこはかとなく書き付くる。

劇場版仮面ライダージオウ Over Quartzer 感想

 仮面ライダードライブの生みの親であるクリムから、謎の敵により命を狙われている先祖を守ってほしいとの依頼を受け、戦国時代へ飛び織田信長に接近するソウゴたち。だがその前に現れた歴史の管理者を名乗る謎の集団・クォーツァーは、ジオウの存在そのものに関して大いなる秘密を握る存在だった・・・。

 

 ・・・とまぁ、冒頭のあらすじを書いてみたものの、結論から言えばこの映画、ストーリーなんてものはないと言っても語弊はないでしょう。一つ前の映画である「平成ジェネレーションズ FOREVER」と同様、今回も「仮面ライダーはフィクションである」というメタな視点がベースにあるのですが、今回はそれがさらに露骨に描かれます。なにしろ冒頭から、仮面ライダーゼロワンが現れる夢を見たソウゴが「ジオウが終わってゼロワンが始まる」というまるで我々のような言い方をするし、ウォズはデッドプールのように第四の壁を破ってスクリーンのこっち側にいる我々に語りかけてくるし、しまいにはクォーツァーの首領が平成ライダーを評して「作品ごとに設定も作風もバラバラ」とか身も蓋もないことを言い出す始末。そんな平成ライダー、いや、平成という時代そのものを「醜い」と評し、平成ライダーの歴史をジオウという一人のライダーに集約させたうえで葬り去り、自分たちの手で「平成」を作り直すというのがクォーツァーという連中の目的なのですから、こいつら自体が平成ライダーという物語の枠の外から平成ライダーを囲い込もうとする、史上最もメタな敵だと言えるでしょう。

 

 「平成ジェネレーションズ FOREVER」は、「仮面ライダーはフィクションである」という事実を示したうえで、しかしそれを見てきた人にとってはリアルなものであり、平成ライダーを人生の一部として取りこんできてくれた我々視聴者に対する作り手たちの感謝に溢れた作品でした。そのうえで今回作り手が描いたのは、「平成ライダーとはこういうものだ」という作り手の主張そのものではないでしょうか。それはクォーツァーの首領が平成ライダーを評して言った「でこぼこの道」という言葉に対するソウゴの「でこぼこで何が悪い!」という叫びに集約されると思います。確かに平成ライダーは作品ごとに設定も作風もバラバラで、統一感のかけらもありません。共通しているのはほとんど「仮面ライダー」という名前だけ。ですが、かつての「悪の組織と戦う改造人間」という枠を打ち破り、毎年毎年それまでの作品を捨て去るように「変身」を繰り返してきたことこそが、仮面ライダーを昭和の頃から遥かに飛躍させる原動力となったのです。思えば平成ライダーの初期の頃は旧態依然たる固定観念との戦いの時代であり、ライダー同士が殺し合う龍騎あたりでそれはピークに達しました。そんな時代も過ぎ去り、いつしか我々は毎年毎年姿も設定も物語も一新されたライダーが現れることを当たり前のように受け止めるようになりましたが、そんな我々に「思い出せ。平成ライダーっていうのは不揃いで統一感もまるでないけど、どこまでも自由で、新しくて、枠にはまらないものなんだ」という主張でもって殴ってくるのがこの映画と言えるでしょう。そんなわけで、「平成ライダーとはなんぞや」を説くこの映画は、どこまでも枠組みというものをぶっ壊しにかかります。登場するライダーたちも、TVで登場してきたおなじみのライダーだけでなく、オリジナルビデオ作品やネット配信作品にしか出てこなかったアイツら、舞台に登場したアイツ、10年以上前に放送された特番の一度しか出てこなかったアイツ、三次元の存在ですらないアイツ、極めつけには仮面ライダーですらない、絶大な人気を誇りながらも仮面ライダーに「選ばれなかった」アイツまで、みーんなまとめて平成ライダー。はっきり言ってもう、子どもは完全に置いてけぼりです。鍋の中に水と一緒にカエルを入れ、じわじわと温度が上がるように鍋を熱すると、やがてカエルは逃げることなく茹だって死ぬ、と言いますが、我々もまた20年かけてじわじわと慣らされていただけで、実はとんでもないものを見させられていた、という事実を、平成の最後の最後になっていきなり気づかされた、という気持ちです。

 

 というわけでこの作品、名作とか駄作とか言う前に間違いなく「問題作」あるいは「怪作」です。もっと普通にジオウの最後を締めくくる作品としての映画が見たかった、という意見も見られ、それも無理からぬところでしょう。しかし、平成ライダーそのものが本来賛否両論だったことを考えれば、この作品が賛否両論となることこそが、まさしく作り手側にとってはしてやったりなのではないでしょうか。作り手側は映画としての美しさよりも、まさに平成ライダーが終わる今ここで、平成ライダーとはなんだったのかを伝えることを選んだのでしょう。たしかにこれは今、平成ライダーという作品以外に、世界の誰にも作ることのできない映画です。1954年の「ゴジラ」の本当のすごさを理解できるのが当時の観客しかいないように、この映画を真に楽しめるのは、まさに今だけなのです。そして、間もなくライダーの歴史もまた令和へ。ゼロワンから始まるまだ見ぬ令和のライダーたちは、平成のライダーたちから何を受け継ぎ、何を飛び越えて「変身」していくのか。その未来に想いを馳せずにはいられません。