BLACK DODO DOWN

HN:影月。「怪」のつくものを好み、特撮・ゲームを中心に、よしなしごとをそこはかとなく書き付くる。

仮面ライダーゼロワン シリーズ総括

 最終回の感想の最後に書いた通り、ゼロワンのシリーズ全体を振り返り、自分なりに総括していきたいと思います。どう書くべきか迷いましたが、物語の一区切りごとに当時考えていたこと、今から振り返って思うことを書き連ねていくこととします。便宜上各区切りを「○○編」と勝手に呼ばせてもらいますが、ご容赦ください。

 

◆滅亡迅雷編(1~15話)

 物語の始まりから、滅亡迅雷.netとの最初の決着まで。いまだ記憶に鮮烈なスタートを飾った腹筋崩壊太郎をはじめ、様々な職業に従事するヒューマギアが登場し、こちらの想像以上に人工知能搭載型ロボットが普及した社会の描写に、毎週のように新鮮な驚きを覚えていた頃です。ヒューマギアの存在が社会にもたらす影響、発生する問題についても様々な角度から描かれていて、振り返ってみればこの頃が最も純粋に物語を楽しんでいた時期でもありました。また、ヒューマギアを全肯定する或人、全否定する不破。この二人が互いにぶつかり合いながら影響し合い、ヒューマギアに対する考え方を変化させていく、という展開を想像していたのですが…。一方で、大企業の社長を主人公に据えているにも関わらず、主人公以外に人間の社員として登場するのは副社長と専務だけ、という異様な状況は、既にこの時点で見られていました。この「人間不在」という物語の構造上の問題は、後になればなるほど色濃く目につくようになっていくことになります。

 

◆ZAIA編(16~29話)

 垓がお仕事5番勝負を挑んできてから、或人が会社を去るまで。ゼロワンのどこがいけなかったといえば十中八九ここが悪かったと口を揃えるでしょう。私もおおよそそれには同意するのですが、滅亡迅雷.netがいなくなった後の新たな敵としてライバル企業の社長、それもヒューマギア否定論者を登場させて対決させるという展開自体は、至極理に適った展開だったと思います。おわかりのとおり、まずかったのはその対決の方法と描き方。そもそも人工知能は創造的な仕事が不得手と言われているのに反して、ヒューマギアは第1話からお笑い芸人が出てくるくらい、クリエイティビティにも富んだロボット。そんな労働者として完全無欠の存在に対して、人間が仕事の能力を競う対決を挑んだところで、結果は火を見るより明らか…だったはずなのです。それを無理やりに人間側の勝利へと強引に話を持っていく、しかも、子供の目から見ても無茶苦茶をやっているとわかるような不正が裁かれることもなく通ってしまうような展開を見せられ続ければ、誰だってうんざりするでしょう。作品世界にまともな警察や司法が存在するのかさえ疑問を抱かせるような横暴が横行する展開は、作品のリアリティそのものを壊滅的に損なうものとなり、これがエグゼイドと同じ人の脚本か…と愕然となりました。なぜこうなってしまったのかは、脚本の高橋さんの話をぜひ聞きたいところです。同時にその中心人物たる垓は、何をどうしようが覆ることのない決定的な「諸悪の根源」となってしまいました。エグゼイドの黎斗のように本人なりの理想があればまた違ったかもしれませんが、その行動理念が単なる死の商人のそれだったこともまた、彼の不幸でした。一方、この時点から「人間の悪意」がクローズアップされていき、人類とヒューマギアの関係性の描かれ方も多角的なものからこの「人間の悪意」へと集約されていくことになります。

 

◆アーク編(30~41話)

 或人が飛電製作所を立ちあげてからアークゼロの登場、そして打倒まで。この区切りでよいのかは私も迷いますが、とりあえずこう区切ります。この期間にコロナの流行により社会全体の動きが止まり、実質4.5話分を総集編でお茶を濁すことになってしまいました。ですので、正確にこの区切りを、ひいてはシリーズ全体を評価するためには、もしコロナがなかったらこうなっていたという本来の構想を高橋さんから聞くしかないのですが。ともかくこの期間に最初に行われたのは、ZAIA編の大急ぎでの尻拭いでした。ZAIA編での横暴ぶりが嘘のように、毎回のようにボロ雑巾のようになる垓の姿を見るのは確かに胸のすく思いではありましたが、ZAIA編がああも無茶苦茶であった以上、その巻き返しも強引なものにならざるを得ませんでした。一方、それまでヒューマギアに単なる道具であってほしいのか、それとも人間と同じ存在になってほしいのか、或人の理想がはっきりしないと感じていた私は、或人が会社を飛び出して新天地で動きだすことでそれがはっきりするのではないかと期待していましたが、結局その期待は応えられることなく、この期間は来たる最終章に向けて登場人物たちの関係性を整理するためだけに機械的に費やされた(されざるを得なかった)と言っていいでしょう。アイちゃんやさうざーのようなデウス・エクス・マキナを登場させざるを得なかったことは非常時だから仕方ないと思っていますが、不破の行動原理の根幹だった過去の記憶を捏造だったことにしてしまったことについては、さすがにどうかと思います。そして満を持して登場したアークゼロは、確かに強大な力を持つ強敵ではあったものの、その行動原理である悪意は垓によって与えられたことがわかっていたので、自分自身のものではない借り物の行動原理で動く主体性のないからっぽの敵、と映ってしまいました。もっともこれについてはこの直後、始めからアークゼロはラスボスなんかじゃなかったことがすぐに明らかになるわけですが…。

 

◆最終章(42~45話(最終回))

  イズの破壊に端を発し、或人と滅の間で繰り返される憎悪の連鎖が世界を巻き込み、そして最終回へ。この期間の展開については、エグゼイドの時に何度も驚かされた高橋脚本の良さがようやく戻ってきたと思いましたし、これ以外の幕の下ろし方はないと思いました。少なくとも問題を人間の悪意に一本化したうえでの解答はこれでよかったと思います。ただそれでも、始まりであるイズの破壊による或人の闇堕ちも、他の主人公ライダーと比して異常なまでのヒロインへの依存が原因なので、他のライダーだったらこうはならなかったんじゃないか…という思いはあります。また、不破が或人との間に戦兎と万丈、ソウゴとゲイツのような関係性を築けていれば、不破が或人をぶん殴ってそれでケリはついていたはずで、ここでも人間同士の関係性の薄さが最後まで尾を引いたと思います。もっとも、今回に関しては或人と滅の対決が問題の根本解決に必要だったので、それでは困るのですが…。

 

 こうして振り返ってみると、やはり「人間」の存在感の薄さが気になりますね。まずもって主要登場人物における人間の数が少ないし、他に出てくる人間の登場人物はヒューマギアのサービスを受ける顧客が大半。ヒューマギアがあれほどまでに社会に浸透した存在ならば、その存在に対して単純な賛否に収まらない感情を抱いている人達がたくさんいたはずです。そういう人達を通してヒューマギアを、ひいては人類とヒューマギアが共存していくうえでの様々な課題を浮き彫りにする、やがて現実の我々の世界にも到来するであろう人工知能と共存する未来のためのシミュレーションが見られることを、私は期待していたのです。少なくとも初期の頃はその片鱗が感じ取られたのですが、やがてその語られるべき諸問題は「人間の悪意」へと一本化されてしまった。ヒューマギアによって仕事を奪われた人々に対する保証はどうすべきか。自我に目覚め自らの権利を主張し始めたヒューマギアに対してどう応じるべきか。ヒューマギアが悪意を乗り越えたとしても、それとは関係なく発生することになる社会の変化に伴うこういった諸問題については、提示はされても明確な解答が示されることは結局ありませんでした。ヒューマギアという社会全体に影響を及ぼす存在を描きながら、その影響を受ける社会は極めて矮小化、さらにはデフォルメされたかたちでしか描かれなかった。もちろん私も、考えられうる全ての問題を提示して、それらに対して明確な解答を出すというような神業を、いちTV番組であるこの作品に端から求めてはいません。多角的な視点にこだわることで、描くべきものの焦点がぼやけることを避けた結果、こうなったのかもしれません。それでも、不完全なものでもいいから、人工知能との共存に伴い社会に発生する課題と解答について、この作品なりに考えた末のものをもっと見てみたかったと思うのです。

 

 一方、高橋さんが以前に脚本を手がけたエグゼイドと比較すると、エグゼイドが最初から最後まで病と戦うドクターたちの姿を描いた医療ドラマから逸脱しなかったのに対して、ゼロワンは果たして企業ドラマだったか?と問われれば、疑問符がつくのではないかと思います。そもそも飛電もZAIAも社員が全くと言っていいほど登場しないうえ、飛電とZAIAの抗争はTOBという言葉こそ出たものの、実際に行われたのはあのお仕事5番勝負。或人の個別の顧客やヒューマギアに対する対応は見事でしたが、経営戦略のうえでは目を引くような采配をすることはありませんでしたし、飛電製作所でもアイちゃんの製作以外に目新しいことはしていません。或人の「社長」という役割は、ただヒューマギアに対して責任を負うための動機付けとして与えられたものだったと言ってもよいでしょう。振り返ってみればダブルは探偵だったし、フォーゼは高校生だったし、ドライブは刑事だった…というように、主人公に何らかの「職業」が設定されているライダーは、必ず主人公がその職業についている必然性をもたせるかたちで物語が描かれました。まぁトニー・スタークやブルース・ウェインにしたところで、描かれるのは専らアイアンマンやバットマンとしての戦いであり、自社の経営戦略を経営陣に向かって熱弁したりライバル社と熾烈な経営合戦を繰り広げるようなところはあんまり描かれないので、或人ばかりを社長らしくないと批判するわけにもいかないのですが、いみじくも垓が指摘した「経営者は利益を出さなければならない」という当然の責務について、もっとはっきりとしたかたちで答えを出す姿を見てみたかったのは確かです。作中で頻出した「夢」という言葉について、中身のあるものとして響かなかったのも、ここの一因があったように思えます。

 

 このように思うところを挙げていけばいくつも挙がってしまうのですが、それはそのまま、この作品が多くのことを描けるだけの懐の深いテーマ性を持っていたことの証左でもあります。世界の存亡をかけた戦いを描きながら、多くは主人公たちの周辺の狭い世界でしか物語が展開されない特撮ヒーロー番組において、高性能人工知能が存在する社会全体を描こうとしたわけですから、それも当然の帰結と言えるでしょう。ただ、この番組が良きにつけ悪しきにつけ議論を紛糾させたことには、小さく収まって凡作で終わるよりもはるかに大きな意義があったと思いますし、断じて駄作や失敗作などではありません。時が経てば、今はまだない新たな視点からの評価がなされることもあるでしょう。なにしろヒューマギアはともかく人工知能自体は、いずれ現実の我々の世界にも大きな変化をもたらすのでしょうから。その時、ゼロワンでは描き切れなかった課題に向きあい、解決していかなければならないのは我々なのです。我々一人一人がゼロワンになる。その時代は、すぐそこまで近づいているのかもしれません。